ゲシュタルトクライス――知覚と運動の人間学 【新装版】
本, ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカー
ゲシュタルトクライス――知覚と運動の人間学 【新装版】 は ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカー によって作成されました 各コピー6160で販売されました. Le livre publié par みすず書房; 新装版 (2017/5/19). Il contient 408ページ pages et classé dans le genre genre. Ce livre a une bonne réponse du lecteur, il a la cote 4.9 des lecteurs 2. Inscrivez-vous maintenant pour accéder à des milliers de livres disponibles pour téléchargement gratuit. L'inscription était gratuite.
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ゲシュタルトクライス――知覚と運動の人間学 【新装版】無料ダウンロードkindle - 内容紹介 ゲシュタルトクライス、生物学的行為の自己創造の円環性、円環形態の構造 (ゲシュタルトクライス)、それは実験室、臨床、理論的思索のいずれから先に 生れたとも言いえない、燃えるような生命の思想なのである。 本書の仏訳(フーコー、ロシェによる)の序文においてアンリ・エーは、「ここに力説しようと しているのは、主体の存在の構造的発展のうちに、つまり我と我身に自己を反映させる ことによってはじめて世界に開かれる主体の峻烈な実存の弁証法のうちに、主体の自己自身 との葛藤の意味を包摂、把握しようとする方向」なのだ、と述べている。 [1975年初版1995年新装版] 「生命あるものを研究するには、生命と関りあわねばならぬ。……生命は生命あるものとして われわれの眼の前にある。……学問というものは、問うということの目覚めと共に、生命の まっただなかで始まったものなのである。したがって学問が生命から跳び出すありさまは、 眠りからの目覚めに似ている。……生命それ自身は決して死なない。死ぬのはただ、個々の 生きものだけである。個体の死は、生命を区分し、更新する。死ぬということは転化を可能に するという意味をもっている。死は生の反対ではなくて、生殖および出生に対立するものである。 出生と死とはあたかも生命の表裏両面といった関係にあるのであって、論理的に互いに排除 しあう反対命題ではない。生命とは出生と死である。このような生命が、われわれの真のテーマ である。」(本書序より) 著者について Viktor von Weizsacker 1886-1957。ドイツに生まれる。代々プロテスタントの牧師、神学者、学者の家系であった。1904年テュービンゲン大学医学部に入学、のちフライブルク大学やハイデルベルク大学で生理学・哲学・内科学を学ぶ。1909年医師国家試験に合格。第一次大戦で野戦病院に配属中より神経学の研究をはじめる。1920年以後ハイデルベルク大学の内科神経科部門部長。のちに教授となり医学的人間学の構想をいだくとともに臨床的・実験的研究を続ける。第二次大戦後、ハイデルバルク大学の「臨床医学総論」講座主任教授。 邦訳に『神・人間・自然』(みすず書房、1971)、『ゲシュタルトクライス』(みすず書房、1975)、『病因論研究』(講談社、1994)、『生命と主体』(人文書院、1995)、『病いと人』(新曜社、2000)、『パトゾフィー』(みすず書房、2010年)がある。以下は、ゲシュタルトクライス――知覚と運動の人間学 【新装版】に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
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ゲシュタルトクライス――知覚と運動の人間学 【新装版】無料ダウンロードkindle - 内容紹介 ゲシュタルトクライス、生物学的行為の自己創造の円環性、円環形態の構造 (ゲシュタルトクライス)、それは実験室、臨床、理論的思索のいずれから先に 生れたとも言いえない、燃えるような生命の思想なのである。 本書の仏訳(フーコー、ロシェによる)の序文においてアンリ・エーは、「ここに力説しようと しているのは、主体の存在の構造的発展のうちに、つまり我と我身に自己を反映させる ことによってはじめて世界に開かれる主体の峻烈な実存の弁証法のうちに、主体の自己自身 との葛藤の意味を包摂、把握しようとする方向」なのだ、と述べている。 [1975年初版1995年新装版] 「生命あるものを研究するには、生命と関りあわねばならぬ。……生命は生命あるものとして われわれの眼の前にある。……学問というものは、問うということの目覚めと共に、生命の まっただなかで始まったものなのである。したがって学問が生命から跳び出すありさまは、 眠りからの目覚めに似ている。……生命それ自身は決して死なない。死ぬのはただ、個々の 生きものだけである。個体の死は、生命を区分し、更新する。死ぬということは転化を可能に するという意味をもっている。死は生の反対ではなくて、生殖および出生に対立するものである。 出生と死とはあたかも生命の表裏両面といった関係にあるのであって、論理的に互いに排除 しあう反対命題ではない。生命とは出生と死である。このような生命が、われわれの真のテーマ である。」(本書序より) 著者について Viktor von Weizsacker 1886-1957。ドイツに生まれる。代々プロテスタントの牧師、神学者、学者の家系であった。1904年テュービンゲン大学医学部に入学、のちフライブルク大学やハイデルベルク大学で生理学・哲学・内科学を学ぶ。1909年医師国家試験に合格。第一次大戦で野戦病院に配属中より神経学の研究をはじめる。1920年以後ハイデルベルク大学の内科神経科部門部長。のちに教授となり医学的人間学の構想をいだくとともに臨床的・実験的研究を続ける。第二次大戦後、ハイデルバルク大学の「臨床医学総論」講座主任教授。 邦訳に『神・人間・自然』(みすず書房、1971)、『ゲシュタルトクライス』(みすず書房、1975)、『病因論研究』(講談社、1994)、『生命と主体』(人文書院、1995)、『病いと人』(新曜社、2000)、『パトゾフィー』(みすず書房、2010年)がある。以下は、ゲシュタルトクライス――知覚と運動の人間学 【新装版】に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
知覚と運動は切っても切り離せない関係ににあり1元的に理解される。身体ないし身体の諸器官と環界(環境世界)の特定の諸部分との接触は、強力な阻碍によって関係が断ち切られない限り、いつも保たれている。この種の統合性を相即という。例えば、我々が蝶の飛んでいることを知覚するには自己運動をし、常に蝶が網膜の中心部分に来るようにしなければならない。即ち、見ることプラス動くことという事象の全体が一つの行為とみなされる。知覚行為という作業は、運動系の事象と知覚作業によって実現される対象現出とのからみあいを示す。私にとって或るものを現出させる行動それ自体は私にとって現出しておらず、私にとってあるものが現出することによって同時に行動している。運動と知覚のからみあいは、このことを必須の条件として含んでいる。生物的作業の認識にあっては知覚と運動の相互排除の関係が問題になる。この接合関係を回転扉の原理という。回転扉を通り抜けるとき入るとき家の中が見え、出るときには内部がもう見えないということに似ているでこういう。ゲシュタルトとは客観化可能な「もの」的形態ではなく、そういった形態を形成する原理のようなものである。生命体が環境との接点で営み続けている生命現象のゲシュタルトは、外界の知覚と外界へ向かっての運動とが切り離しがたく絡み合った状態で円環(クライス)状の循環を形成している。ゲシュタルトクライスを形成することによって、生命体は環境の不断の変化の中で同一性を維持し主体<Subjekt>であり続ける。主体を可能にしている<主体性>とは、生命体が<生命の根拠>に依拠して生き続けている<根拠関係>そのものである。根拠関係の中にある生命体は物的対象と違って単に<存在する>だけでなく自らの生存を<受け取る>という仕方で存在する。このあり方をヴァイツゼッカーは「パトス的」と呼んで物的対象の「存在的」なありかたから区別する。更に、心身両面の絡み合った病気というゲシュタルトの場合でも、心的あるいは身体的な<原因>と心的あるいは身体的<結果>を分けてこれを因果法則で結ぶのではなく、原因が結果であり結果が原因であるようなゲシュタルトクライスとして考えるに至った。有機体が運動するを「有機体ーー>環界」で表す。有機体が見るを「環界ーー>有機体」で表す。これを一つに円形に書くと円形(クライス)ができる。これがゲシュタルトクライスである。蛇足であるが、知覚と運動の一元化は、西田幾多郎の「行為的直観」とも重なり合うと思います。行為=運動、直観=知覚と解釈すると。ユクスキュルの機能環(Funktionscreis)とも関係している。(「生物から見た世界」ヤーコブ・フォン・ユクスキュル著)1度サラッと読んだだけでは理解されえない。何度もよく繰り返し読むうちに翻訳文が頭に入るようになる。訳文は正確である。
によって ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカー
5つ星のうち (2 人の読者)
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